薬膳テキスト

5.長桑君と扁鵲
長桑君は春秋時代の人で、当時も大きな名声を誇った医師でした。中薬、薬膳(食事療法)に精通し、豊富な臨床経験があったと言います。扁鵲はその弟子で、本名を秦越人といい、医術に精通していたことから扁鵲と呼ばれました。中国史上に名を残す名医として有名です。

《史記・扁鵲列伝》では扁鵲はもともと旅館の管理の仕事をしており、そこに長期滞在した長桑君に出会ってから彼の医術を受け継ぎます。老いた長桑君は“我有禁方、年老欲伝与公、公勿泄”と自らの持つ秘法を決して口外しないことを条件に扁鵲に与えます。

扁鵲は長桑君の伝えた秘薬を30日間服用したところ、壁の向こうにいる人の姿が見えるほどの透視力を身につけました。これは扁鵲の事物の把握力や病気の診断力が並外れており、疾病の場所、問題点、使用する薬物の正確さが飛びぬけていたことを表しているとされます。彼をして四診、脈診などの診断学の基礎が確立されたとも言われ、特に鍼灸を学んだ人なら必ず一度は彼の話を聞いたことがあるでしょう。

また彼が残したとされる「六不治(病気の治療を不可能にする六つの状態)」の教え、即ち「驕恣不論於理(おごり高ぶって論理を軽視するもの)」、「軽身重財(身を軽んじてお金を重視するもの)」、「衣食不能適(衣食が適さないもの)」、「陰陽並蔵気不定(陰陽と五臓の気が定まらないもの)」、「形羸不能服薬(体が弱って薬すら飲めないもの)」、「信巫不信医(迷信に頼り医師を信じないもの)」です。様々な示唆に富むこれらの教えは、現代の医術でもたびたび学生に教えられます。

さて、扁鵲の治療に関するエピソードは枚挙に暇がありません。多くの中国人が一度は聞いたことがあるであろうエピソードをいくつか紹介しましょう。

晋昭公の時代、多くの大夫が勢力をつけ、そのうち趙簡子と呼ばれる大夫は国事を掌握するまでになりました。しかし趙簡子は病に倒れ、治療のため扁鵲が呼ばれます。趙簡子の横たわる部屋に入って診察を行った扁鵲は「血脈は正常です。何も心配することはありません。以前似たような症状を見たことがありますが、そのときの病人は七日後に目覚め、『天帝のそばで愉快に遊んでいた。おかげで帰るのが遅れたが、天帝がこの後大きな乱があるといい帰ってきた』といいまさにそのとおりになりました。趙簡子公も三日ほどで目を覚ますでしょうが、その後予言めいたことを言うでしょう。しっかりと記録しておきなさい」と配下の者に伝えました。二日後、まさにその通りになり無事目を覚ました趙簡子は扁鵲に大きな土地を贈りました。

また扁鵲が虢(かく)の国に赴いたとき、まさに虢の皇太子が死んだ当日でした。王宮の前で医術に詳しい人に何が起きたのかを尋ねたところ、「太子は何らかの病気だったらしい。血気の運行が不規則で、陰陽が交錯しては排泄が出来ずに体表で猛烈に爆発し、内蔵が障害を受けてしまった。人体の正気が邪気を止められず、邪気が体から出て行かなかった。それで亡くなった」と答えました。扁鵲がいつのことか訪ねると「先ほど」、死体は埋めてしまったのかと訪ねると「まだ、死んでから半日も経ってない」と返事が返ってきました。扁鵲は直ちに「私なら太子を蘇らせられます」と言い、そばにいた人々に王宮に取り合うように伝えました。しかし人々は荒唐無稽なことをいい始めた扁鵲をあざ笑い、時に様々な故事を引き合いに出して彼を諭しました。扁鵲は天を仰ぎため息をつき、「私の医術なら、患者に触れずとも、顔色を見たり、声を聞いたり、姿を見れば病気がどこにあるのか分かるのです。また体中の病気は必ず体表にも反応が現れます。体表の状態を知ることが出来れば千里の遠くにいても診断することとが可能なのです。私の言葉を信じられないなら、どうか王宮に入り太子の体を見てきてください。彼の耳元では微かな音が聞こえるでしょうし、小鼻は小刻みに振動しているはずです。また太ももから陰部にかけては熱が残っているでしょう。」と呟きました。民衆らが返す言葉もなく唖然とした表情で扁鵲を見つめていたところ、この話を聞きつけた王宮の人が公にこの話を伝え、公は早速扁鵲を王宮に招きました。扁鵲は公に太子の病の状況を説明し、いわゆる仮死の状態にあることを伝えます。扁鵲は付き人に針を用意させ、百会のツボに針を刺した数瞬の後、太子は突然目を覚ましました。また扁鵲が配合したシップを両脇に貼ると太子は座ることができるようになり、調合した薬液を20日ほど服用することで病気は完全に回復しました。この話は瞬く間に天下に伝わり、扁鵲が死人を蘇らせたと大きな噂になりましたが、扁鵲は「さすがに死人は蘇させられない。私はただ体を回復させただけだよ」と笑ったと言います。

他にも扁鵲は様々な場所を旅し、それぞれの場所で民の要求に基づいて多くの患者を治療しました。土地によって婦人を治し、老人を治し、子供を治し、その時その場所であらゆる病を治した全能の医師とも呼ばれ、現代でも大いに尊敬されています。現代の漢方診断の元となる四診の基礎を築いた人とされ、薬膳や食事療法に与えた影響は計り知れないものが有ります。
6.華佗と薬膳
華佗は東漢末期に活躍した医師で、現在の安徽省出身とされます。三国志ファンにはすっかりおなじみの名前でしょう。華佗は世界で初めて麻酔薬物“麻仏散”を用いて外科手術を行ったとされ、曹操の侍医として頭痛を取った話、関羽の腕の手術をした話、死亡した双子の胎児の片割れを取り出した話などは熱心な三国志ファンでなくてもご存知かと思います。

彼は薬物をあまり用いず、外科的手法や患者の精神をコントロールすることで病気を治療することに長けていたといいます。中国の歴史上最も早くに、「外科手術で用いる器具を平時は酒に漬けておき、用時は火により消毒して消毒殺菌して用いた」という中国の「消毒の祖」ともされます。薬膳料理で使う器具も清潔なものを用いたいものです。

薬膳や食事療法に関しては、当時の漬物を用いて当時蛇と呼ばれていた回虫を吐き出させて治療した故事が有名でしょう。安徽省や山西省の一部では現在でも、当時のままの治療法を用いて回虫の治療が行われています。当時流行していた寄生虫病を身近な食材を用いて治療するという考えは、薬膳にも通じる部分があります。

華佗は前述の張仲景、そして医学界を表す「杏林」という単語の由来となった同時代の名医董奉とあわせて「建安の三名医」と呼ばれます。


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